古代・中世の大辺路について分かっていることはほとんどない。新宮の古文書『熊野年代記』は、7世紀後半に3度にわたって天皇の熊野参詣があったとしており、宗教民俗学者の五来重は、それに辺路信仰(へじしんこう)、すなわち、海辺に祭られた神々を巡る信仰の伝承を見ている。しかし、これらは、熊野信仰の広がりという点からすれば不自然であるし、確かな史料の裏づけを欠く点からしても、あくまで仮説の域にとどまる。
もちろん、これらは大辺路の通行を完全に否定するものではない。だが、いずれにせよ、大辺路に関する確かな史料の出現は近世を待たなければならない。
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大辺路の確立 [編集]
大辺路の名は近世初期の笑話集『醒睡笑』(1623年,元和9年)にて小辺路とともに難地の道として登場する。同時期の成立と見られる説経節『をぐり』にも大辺路の地名が登場し、難路と述べられている。また、元禄14年(1701年)に中辺路から大辺路を巡った風狂子なる僧が参詣記『熊野独参記』のなかで、大辺路を昔の参詣道であると言及しているほか、西行が塩浦崎の歌を残しており、歌枕にも大辺路に関連する地名が見られる。また、当山派修験(醍醐寺三宝院門跡)の記録からすると室町時代末には開削されていたことは間違いなく、これらから、少なくとも中世末期にはルートが確立し、その名が知られていたことが判明する。
同時期はまた、中辺路・小辺路の称が確立し、それまで紀伊路と一括されていた畿内からの参詣ルートが区分されてゆく時期でもある。これは、中世熊野詣を主導した熊野修験の勢力の衰退と、それに伴う独占的な熊野参詣経営の後退が、参詣ルート管理の弛緩を生じさせた現れと考えられる。
近世 [編集]
大辺路の近世において重要になるのは、行政道路としての利用を念頭に置いた、紀州藩による積極的な交通整備である。すなわち幕府の巡検および藩中枢との往来に備えて、紀州藩は、紀伊半島南部の海岸沿いの道に、馬と人足が常駐する伝馬所や一里塚を整備し、石畳を敷設したのである。こうした整備は紀伊半島南東部に及んだ(伊勢路において江戸道と呼ばれる部分がそれに相当する)が、この一環として大辺路もある程度の整備が施された。
こうした整備を促した公用および準公用の利用について、大辺路に直接関わる部分だけ述べると、紀州藩主(紀州徳川氏)の通行と当山派修験の三宝院門跡による通行がある。まず前者だが、初代頼宣が少なくとも1回、7代宗直が享保7年(1722年)に、10代治寶は寛政6年(1794年)と同11年(1799年)の2度にわたって、それぞれ通過し、8代重倫は天明8年(1788年)に田辺から潮岬までを往還している。後者の当山派修験は、大峯奥駈行の一環として大辺路を通行した。三宝院門跡の大峯奥駈行は17世紀後半から19世紀初めまでに4度行われているが、大辺路を通行したのは3回のみである。門跡通行の際は、一行は徒歩だが、門跡自身は何人もで担ぐ大きな輿に座乗し、行く先々では藩主に準じる接待をすることになっていた。しかしながら、中世熊野詣や西国三十三箇所巡礼のメインルートであった中辺路などとは事情が異なり、大辺路の旅籠や茶屋は乏しく、あってもせいぜいこうした公用に臨んで仮設されるものばかりであった。そのため、結局これら公用者の接遇に要する負担や費用は沿道の住人に帰されたため、大きな負担となった。
熊野詣に代わって伊勢詣や西国三十三箇所巡礼が盛んになった近世においては、特に立ち寄るべき霊場や聖地があるわけではない大辺路の利用は、参詣の帰路として利用する例、特に文人墨客が訪れる例に集中している。こうした人々は、しばしば大辺路の風光を目当てにしており、巡礼道といいつつも観光的な性格が備わってきたことが分かる。この場合も、上述のような事情から、沿道の住人の世話にならなければならなかった。
このように、大辺路は、紀州藩の街道として整備されはしたものの、街道としての機能は乏しかったため、概して急を要する用務には不向きと見なされていたようである。参詣の復路としての利用や文人墨客の旅路はもちろんだが、紀州藩の公用で利用された例でも、時間に追われずともよい復路にもっぱら適する道として、西向きで通行されていた。
近代 [編集]
このように観光道的な性格を帯びていた大辺路であるが、1880年代末からは、大阪・熱田間を結ぶ汽船が、田辺・周参見・串本・勝浦へ寄港するようになったため、熊野を訪れる旅行者は海路を利用し、大辺路はもっぱら地元の生活道路として利用されるようになった。
さらに、1912年(明治45年)に新宮鉄道が三輪崎~勝浦(現在の紀伊勝浦)間に開通したのを始まりに、1933年(昭和8年)には国鉄紀勢西線が紀伊富田から紀伊田辺間で開業し、大辺路の全区間が鉄道で結ばれた。これらは紀勢本線の原型である(全線開通は1959年)。
また、1930年(昭和5年)には田辺・串本間の海沿いに開削された道路を乗合自動車が運行するようになった。この道路は、1945年(昭和20年)、国道41号(丙)に指定された後、数度の変遷を経て、1965年(昭和40年)年の道路法改正で一般国道42号線に指定されている。これによって、現在の紀伊半島南西岸の交通網が完成し、大辺路はひとまずは役割を終えた道として、忘却されることとなった。
2004年の世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の登録に際しても、上述のような事情から候補リストへの記載が遅れたが、最終的には遺産としての登録がなされ、また、通行可能なように整備が進められた。ただ、旧道のルートが不明なままの区間や埋没したままの箇所もまだまだあるものと見られ、地元ではそれらの区間を再発見する試みも行われ続けている。